貫花(ヌチバナ)の南嶽節(ナンダキブシ)

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 貫花のちらし(メインの曲で踊られた後、それより短めの趣の違う踊り<テンポが速かったり、明るい曲だったり>が踊られることがあり、それを「ちらし」という)は南嶽節(ナンダキブシ)である。観ている観客は、ちらしが始まると、もう終わるんだなと少々寂しい思いにとらわれる。なぜそのような構成がとられるようになったのか、本土の芸能に類似の構成法があるのかどうか、残念ながら浅学にして知らない。

 この南嶽節の歌詞が、なかなかに素晴らしく、貫花という舞踊を一段と奥行きのある素晴らしいものにしているように思う。今日はこれと言って書きたいことも思い浮かばないので、学生の頃に親しんだ琉歌の世界を紹介してみよう。

         打ち鳴らし鳴らしヨー サーサー
         四つ竹(ゆつぃだき)は鳴らちヨー サーサー
         チュラヨヰ チュラヨヰ キユスィディ ナンダキヨ

         鳴らす四つ竹の(ぬ)ヨー サーサー
         音(うとぅ)のしゅらさヨー サーサー
         チュラヨヰ チュラヨヰ キユスィディ ナンダキヨ

         今日(きゆ)やおいきゃい拝(うぃちぇーうが)でぃヨー サーサー
         いろいろの遊び(いるいるぬあすぃび)ヨー サーサー
         チュラヨヰ チュラヨヰ キユスィディ ナンダキヨ
 
         明日(あちゃ)や面影の(うむかじぬ)ヨー サーサー
         立ちよとめ(たちゅらとぅみ)ばヨー サーサー
         チュラヨヰ チュラヨヰ キユスィディ ナンダキヨ

 貫花の踊りが、途中から四竹を持って踊られるが、その時のアップテンポな曲が南嶽節である。私が気に入っているのは、最後「今日(きゆ)やおいきゃい拝(うぃちぇーうが)でぃ/いろいろの遊び(いるいるぬあすぃび)/明日(あちゃ)や面影の(うむかじぬ)/立ちゅらとめ(たちゆとぅみ)ば」の部分だ。訳すると以下のようになる。

   今日(きゆ)やおいきゃい拝(うぃちぇーうが)でぃ
   (今日はお会い申し上げて)

   いろいろの遊び(いるいるぬあすぃび)
   (いろいろな遊びをいたしました)

   明日(あちゃ)や面影の(うむかじぬ)
   (しかし、明日になると恋しさのゆえに面影が)

   立ちゅらとめ(たちゆとぅみ)ば
   (立ち現れるだろうと思うと、今から寂しさが募ります)

 まあこんな感じだろうか。たいていの場合、惚れるのは一瞬だ。そして、惚れてしまうともう一瞬も離れていたくないのだ。あなたがいない明日を考えたら、もうたまらなく寂しい、と歌うのである。う~ん、若かりし日を思い出し、思わずうなってしまう。

 むろん以前から恋しいと思っていた人と、思いがけず楽しい時間を過ごすこととなったとも理解できる。しかし、私は、恋というものが不意に始まってしまうときめきの瞬間にちょっと執着したい。だからこの解釈は私の個人的見解である。なお、歌の背景として、いわゆる歌垣に相当するモーアシビー(山遊び。野山に若い男女が大勢集い、歌や踊りをして楽しむ習わし)を当然考慮すべきだろう。

 例えば、時に貫花を踊る女性の中に、思わず見とれてしまう美しい女性がいたりすると、もうこの歌詞がずんずん心に響いてしまう。この踊りの作者がそこまで狙っていたとは思えないが、実際に観客はその歌詞そのままの状態に陥ることもあるのだ。見事な構成だというしかない。その歌詞の通りに、貫花という踊りの終わることが、もう耐えがたく寂しいこともある、ということ。



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